大人になるということ

 僕が小学一年生のころ、青い縁の眼鏡をかけた二年生の女の子のことが気になっていた。いま思うとそんなにかわいい子ではなかった。でも僕は、眼鏡をかけているその子に妙に惹かれていた。

 

 いま僕は、20歳を迎えようとしている。当時では考えられなかった年齢になろうとしている。長くて短い14年間だった。変な感じがする。

 小一のあの春に自分は生まれた。家庭とは違う世界に生きる自分である。社会という、自分の手ではどうしようもできないもの。一人ひとりが等しく主権を持ち、合議制によって物事が裁かれる社会である。得体の知れない存在に、ある時は胸をときめかせ、ある時は恐怖に震えた。

 家庭には安寧があった。慮ってくれる両親がいた。自分の希望通りに、いや自分のわがままで物事を決めることができた。

 

 小六の秋、中学受験の塾に通っていた自分は、いよいよ近づいてくる入試本番に、やりようのないいらだちを抱えていた。

 友達付き合いで始めた塾だったが、のらりくらりとその時まで辞めずに続けていた。塾は、多くの友達と会える楽しい場所だった。小学校とは違って、自分より頭のいい子供たちが集まる場所。小テストの点で盛り上がるようなハイソな場所。問題を解けることを恥ずかしがらずに済む場所。

 楽しかったはずの塾が、にわかに現実的な色を帯びてきた。そろそろ入試に向けて、気持ちを入れ替えて勉強しようという時期だった。周りの環境が変わる。優しかったはずの先生が突然、恐ろしい声を上げるようになった。夏が終わり、気温が下がり、明るい時間が短くなる。陰鬱な雰囲気が教室を流れる。志望校なんて、どこでもよかった。自分はただ、あの楽しい空間にいられればそれでいいと思っていた。

 いま僕がブログを書いている自分の部屋の、僕の横にある壁にはひとつのキズがある。勉強が嫌になって、暴れた時に足で作ったキズである。そしてそのキズは、自分の親に手をあげたしるしとして、いまも血を流し続けている。

 

 いまの自分は、小六の自分より頭がいいのだろうかと時々考える。確かに、当時の自分は二次方程式すら解けないだろう。でも、何か大事なものは持っていたはずだ。

 手あかのついた表現だが、大人になるということは、いろいろなものを失っていくことで、それをもとに強くなっていくことであると思う。小一の頃の、眼鏡の女の子に対する純粋な気持ちは失ってしまった。当時夢中になっていたミニ四駆への情熱も失ってしまった。大好きだったはずの両親への思いも薄らいでしまった。そもそも生きていくことへの意欲も失ってしまった。昔は、早く大人になって、車を運転したり、好きなようにゲームを買えるようになりたいと思っていたのに。

 

 社会という得体の知れない存在。自分の手でも、親の手でもどうにもできない存在。恐ろしいもの。今では(も)、恐ろしいものとしか見ることができない。

 僕は社会について少しはわかったつもりでいた。でも、何かを知れば、またその先に世界が広がっている。これを好意的に受け取ることができない。無間地獄にいる気がする。

 でも、死ぬほどの覚悟はない。