欅坂46 全国アリーナツアー2019を終えて

欅坂の新しい姿を見た気がした。

 

 2019のアリーナツアー、追加公演はまさかの東京ドーム2daysだった。当初は埋まるのかという心配もされていたが、大成功に終わった。

 不安視されていた平手の身体もなんとか最後まで持った。大トリの『角を曲がる』では、ステージのど真ん中でソロダンスを披露し、それは観客が声を出すこともできないような圧巻のパフォーマンスだった。

 

 ライブとは本質的に、楽しいものである。

 ライブを観終えたときの満足感の正体は、大声を出して声がうまく出せなくなっていたり、大音量で耳が遠くなっていたり、長い時間たちすぎて足が痛くなっていたり、そういう身体的・精神的な疲れ・気持ちよさである。

 僕が言いたいのは、どんなに頑張っても「暗い」「精神の奥底に沈潜する」ようなライブはできないのである。

 

 セトリを、「欅坂の現在地」というテーマから考察してみる。

 これまでの欅坂との関係、運営の熱意、そしてこれからの予測

 

 序盤のOvertureから『エキセントリック』までの4曲がこのライブのコンセプトを如実に表している。そして、ポイントとなるのが、『キミガイナイ』『もう森へ帰ろうか?』。そして意外だった大トリの曲『角を曲がる』。

 

 欅坂が、新しいコンセプトでもって動き始めた気がするのだ。

 『エキセントリック』『ガラスを割れ!』は、

 

 

 序盤の演出に、今年の夏の欅坂の心理世界がすべて表されているといっても過言ではない。

 平手がステージ右から出てくる、ピアノを触る。Overtureから『ガラスを割れ!』『語るなら未来を』。標識ダンスで『Student Dance』。最後に吹っ切れたかのように『エキセントリック』。

 

 *僕はあまりカタミラが多用される理由が分からない。2ndシングルの共通カップリングとして収録されたナンバーで、これまでのライブでは毎回のように披露されてきた(印象)がある。たしかに、曲調やダンスがかっこよく、いい感じに客を盛り上がらせることができるので使い勝手はいいと思う。一方で、歌詞を見ると、後述する欅坂の世界観・コンセプトとは微妙にラインが違うような気がする(たしかに雰囲気は似ている。しかし、カタミラは全体的に単語々々の抽象性・一般性が高い。曲を要約すれば「これまでのことを恥ずかしがらずに未来だけ見ろ」という秋元康からのエールソングとも聴ける。)。誰かのお気に入りなのではないかと思う。

 

 とにかく、僕が思うに、序盤4曲の中でも大事なのは『Student Dance』から『エキセントリック』へのダンス含めた流れなのだ。

 『エキセントリック』は要するに、「欅坂はアイドルなのに変なことをしているな」という批判に対する反論・開き直りの曲だった。曲をその感じで聞いてもらえればお分かりいただけよう。

 一方で、『エキセントリック』はもっと一般性の高い曲のようにも聴ける。つまり、他人が考える「わたし」とわたしが考える「わたし」の不一致と、その不自由さをうたった曲と聴ける。そのエッセンスが『角を曲がる』に忠実に受け継がれ、より純粋なかたちで表現されている。

周りの人間に決めつけられた思い通りのイメージになりたくない

 

 今回のライブのテーマは、「自然⇔人工」だ。

 田んぼと森と小川と、四方を自然に囲まれた田舎での退屈な日々。その暮らしの中で、スマートフォンという小さな窓から覗いた大都会・東京はとても眩しく、魅力的なものに見えた――。

 ビル、鉄道、電波―。無機物に囲まれた生活は、今がどの季節なのかさえ忘れさせてしまう。良くも悪くも自然を克服しすぎてしまった都市での生活は、自分が人間・生き物・生き物であることさえも蔑ろにしたような生活である。

 もう、森へ帰ろうか――。

 

 セットのテーマは「スクラップ工場」。人間の欲望のままに利用された自動車、金属のなれの果て。利用価値がなくなれば、だれにも見られることなく放置されるだけ。自分の存在価値とは、為政者にとっての利用価値でしかなかった。

 

 アイドルとしてその価値を浪費され、かつてのファンは今や違うものに夢中になっている。儚い、諸行無常だと言えばそれまでだが、やっぱり納得できない。

 

 

 自分本位に生きる。