欅坂46 夏の全国アリーナツアー 東京ドーム追加公演 初日

 今回も平手ありきのライブだった。去年までは「平手坂」みたいな蔑称も聞こえていたけど、最近は平手批判をあまり聞かなくなった。篩じゃないが、平手中心の欅坂を好きな層がファンとして残っている、といったところか。

 9thフォーメーション発表の時に、菅井がハッキリといった「停滞」という言葉。これを思い出さずにはいられないライブだった。

 

 セトリを見るとわかるが、マンネリ化しているのだ。確かに理想のセトリではある。ライブ全体に「孤独・エゴ・反抗」という欅坂のテーマが通貫していて、序盤にシンボリックな演出と楽曲、中盤に定番曲、終盤に表題曲クラスで畳みかけるという構成。でも、似たようなライブをこれまで何度もやってきたじゃないか。

 エンタメたるもの、毎回過去最高を更新しなければならない。そのはずが、最近のライブは毎回再放送のような感じだ。焼き直しでしかない。去年のアリーナツアーと、ほとんど変わらない。

 

 なぜライブが代わり映えしないのか。それは、主人公が変わらないからである。菅井がいつか言っていた「停滞」。この原因は全て平手にあるといっても過言ではない。

 平手がいなければ今までの欅坂はなかった。サイマジョが売れることも、幕張の不協和音が伝説になることもなかった。平手は悩める学生たちの代弁者であった。友達はいるけど何となく淋しい、他人と分かり合えない、自分は何者なのか、死んだらどうなるのか、俺は何のために生きているのだろう…。とかく哲学的・根源的な問いに悩みがちな少年・少女たちは、同じように苦しみながらも懸命に生きる平手友梨奈の姿に心を動かされ、欅坂という場所に集まった。平手の苦悩が、2017年、『真っ白なものは汚したくなる』というアルバムとして、欅坂のカラーとして具現化されたのだった。『AM1:27』『少女には戻れない』『エキセントリック』などは、その文脈で作られた楽曲の典型例である。

  かくして平手の苦悩は、欅坂のカラーとなった。2017年のアリーナツアーは大成功だった。彼女たちの感情と、それを見事に言語化した楽曲、そして曲順・ライブの世界観、様々な要素が見事なバランスで調和し、千秋楽の『不協和音』が伝説に残るものになったのだ。

 しかし、それをさらに深化させることはできなかった。「孤独・エゴ・反抗」という主題は、欅坂だけではなく、近代社会の典型的なテーマの一つである。夏目漱石の『こころ』もこのテーマの作品だ。『ライ麦畑~』だって似たようなものだ。つまり、このテーマは未解決のものなのだ。「他人と分かり合えない孤独」を、根本的に解決する方法はまだ見つかっていないのである。平手はもちろんのこと、秋元康さえ分かっていないのだ。つまり、平手・欅坂は、このテーマの一番深いところまで到達してしまったのだ。それ以上深く進むことはできないのだ。

 つまり、今の欅坂は、2016から根本的には何も変わっていないのである。いくらセトリに『避雷針』『もう森へ帰ろうか』『Student Dance』が加わったとしても、結局それらは「孤独・エゴ」というテーマ・文脈で作られた楽曲なので、根本的には同じなのだ。だからこそ、ライブのテイストとしても陰鬱・マイナー調のものにせざるを得ず、マンネリ化してしまっているのだ。

 確かに、欅坂のテーマの転換という試みは、幾度となく図られてきた。つまりは、「孤独」とどう折り合いをつけるかという試みだ。『真っ白~』の次に出された5thシングル『風に吹かれても』がその初めてのもので、「心の底から他人と理解しあうことが出来ないような淋しく孤独な現実世界だけど、"That's the way" それが人生だから気楽に生きようじゃないか」という曲だ。当時、紅白での失神事件などに象徴されるように、平手の精神状態はあまり良くなかった。それほどまでに『不協和音』など楽曲の世界観にのめりこんでいたのだろう。そんな中で発表されたこの曲は、パフォーマンスするのにあまりエネルギーを必要としないような、良くも悪くも「軽い曲」であり、平手を一度正常に戻すという点で意味のある楽曲だった。

 しかし、『風に吹かれても』は、平手のあふれ出る感情を受け止めきる器には成り得なかった。なぜならこの曲は、「大人」の立場から書かれた曲だからだった。欅坂の歌詞世界では、「大人」を「現実世界のどうしようもない問題を見て見ぬふりをして、偽りの幸せを生きている人々」として批判している。「大人」と「少年・少女」は欅坂の歌詞世界における、もっとも純粋な対義語関係なのだ。大人が忘れたこと・大人の信じられないところは、かつて彼らが少年少女だったとき、同じ問題に悩んでいたはずなのに、いつの日かそれを見て見ぬふりでうまくスルーして、今や少年少女を責める存在になっていること。平手にとっては、世界はいいものだというまやかしで本質を有耶無耶にすること、つまり「大人になること」は、到底受け入れがたいことだったのだ。

 その後、平手はより尖鋭化することになる。続く6thシングル『ガラスを割れ!』では、『避雷針』の続編とも聴ける『もう森へ帰ろうか』が収録され、また最も直接的に表現された『夜明けの孤独』が発表された。こうして迎えた2018アリーナツアーは、2017とほとんど同じ心理世界が表現されるライブとなった。一方で、平手の中にも、欅坂として・個人として停滞しているという実感があったのであろう、心と身体がうまくマッチしないツアーとなった。

 

 その点で、7th『アンビバレント』は画期的な曲だということができる。これまでの厭世的な要素が少し抜け、現世肯定的な要素が含まれている。

孤独なまま生きていきたい

だけど一人じゃ生きられない

一人になりたい なりたくない

一人になりたい なりたくない

だけど孤独に なりたくない

どうすればいいんだ この夏

  周りが徐々に大人になっていく中で、自分はどうすればいいんだという戸惑いが垣間見える。大人の世界・大人の生き方・華やかな人生というものに誘惑される一方で、自分がこれまで歩んできた道のりに後ろ髪をひかれる思いでいる。『アンビバレント』は、『不協和音』『ガラスを割れ!』のような「自分の感情」だけにフォーカスした曲ではなく、「他者の生き方」「他者の価値観」にも焦点を当てている。歌詞の視野が広がったという点で、これまでのものとテイストが違う楽曲である。

 その流れの中で特筆すべきなのは、2019年4月に行われた3rdアニラで『シンクロニシティ』が披露されたことである。欅坂が乃木坂の曲をやったというので少し話題になった。この曲も同様に、現世肯定的な曲である。他人とは絶対に分かり合えないと思うような出来事が人生にはたくさん起こるが、ほんの時々、他人の心と自分の心が一つになるような感覚を覚えることがある。そう考えてみると、人生もそんなに悪くない。こういう曲である。この曲のいいところは、『風に吹かれても』のように本質を有耶無耶にした現世肯定ではなく、孤独という問題の真摯に考えたうえで、それでも人生は素晴らしいと言い切るところである。ここにひとつの光明が見える――。

 

 そんな中で8thが『黒い羊』だったのは心底ガッカリした。無理をしてでも現世肯定的な曲を出してほしかった。それ以降、運営・秋元康への不信感がある。彼らは欅坂に対してやる気がないのではないのか。言葉は悪いが、一昔前のSKE,NMB,HKTのように、うまくいかなくなったら見捨てるのか。

 

随分長くなってしまった。以上を踏まえて今回のセトリを見てみると、『アンビバレント』、『風に吹かれても』などは演じられているが、このライブの主軸・主題となっているのはやはり「孤独」なのだ。欅坂はいまだに『エキセントリック』にすがりついているのだ。こんなのは不健全だ。

 

 素人からの提案としては、同じ「孤独」をやるにしても、主人公を変えるべきだということだ。『黒い羊』を山﨑天にやらせればいい。パフォーマンスは実感が伴ってなんぼだ。平手よりはいいものができるだろう。

 そして、初歩的だが、演出にもっと力を入れろ!2017年のアリーナツアーのけやき坂みたいに、心の底から踊り狂える・ライブに来てよかったと思えるようなナンバーをやれ!ファンサらしいものは、『青空が違う』で気球に乗って一周するくらいじゃないか!二期生のグダグダMCも全然面白くない。ライブ中に客にトイレ行かす時間なんて作るな!

 

 さすがに平手に忖度しすぎだと思った。安寧が良いパフォーマンスを生むわけがない。AKBのガチンコ精神が不足している。それならいっそ、半年くらい『万引き家族』みたいな極貧生活を送って、体制批判の急進派アイドルグループにでもなったらどうだ!?

 

 同時に、そろそろ自分が、運営が想定するファンの一人ではなくなってきているなと感じる。どの時代にも「少年・少女」はいて、どの時代にも彼らを救うヒーローが存在する。

僕は平手に救われた人間の1人だ。でも、この歳になって未だに助けを求めているのは、甘えだ。

 

色々考えさせられた一日だった。

                              (終)